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リーガルマインドとコンプライアンス

2014-06-29
その他
前回のコラムで、「リーガルマインド・コントロール」という言葉を用いた。この言葉は、原稿を書いている時にふと思いついた、筆者による造語である。野暮を承知で一言付け加えさせてもらえれば、これは「リーガルマインド」と「マインドコントロール」を合わせたものである。「そんなことわかっている」と言われてしまいそうだが、特に「リーガルマインド」については、若い人にとって馴染みの薄い言葉かもしれない。しかしこれは、かつて非常に流行った言葉であり、今も有名資格予備校の名称の一部に使われている。「マインドコントロール」と違って、「リーガルマインド」は肯定概念であり、法的思考の獲得によって競争に勝つための技能が身に付くと言ったニュアンスが込められているように思う。
そしてこの言葉の方が先に人口に膾炙し、その後、「コンプライアンス」が登場しそれに取って代わったような感があるが、この二つの言葉には深い結びつきがあると、筆者は考えている。
少々理屈っぽい解説をお許し願えれば、「リーガルマインド」の方は、主体内部の話であり、学習によって精神の中に培われた法律とアクセスするためのインターフェース領域のようなものである。一方、「コンプライアンス」の方は、本来、企業や自治体によって構築された法律の拡張子のような領域であり、こちらの方は主体の外、すなわち社会の側にある。そして、この二つのインターフェースがガッチリ接続されることによって、「法律→コンプライアンス→リーガルマインド→精神」、逆に「精神→リーガルマインド→コンプライアンス→法律」といった循環構造が生まれ、その往復運動によってこの結合が強化されていく。さらに、企業や自治体がコンプライアンスを採用していくに従い、リーガルマインドとの接触面の面積も当然拡大されていく。その結果、以前は各人各様の価値観の下で行われていた取引や駆引きは、狐と狸の化かし合いといったような反倫理的な側面も含めて、この接触面の中へと吸収され、封じ込められていく。元来、経済活動の場としての市は、自由が最も体現される空間であり、解放区としてのイメージも伴っていた。しかし、「リーガルマインド-コンプライアンス」においては、一定の自由が担保されるだけで、後は規格化された一連の手続きへと埋没し、解放感も失われていく。そして、筆者が一番恐れているのは、主体内部のリーガルマインド領域が拡大することによって、このような思考パターンが精神全体へと広がり、やがては完全に融合・一体化してしまうのではないかということである。
「それの何が問題なのだ、それが民度の向上というものなのだ」という人もいるだろう。しかし、リーガルマインド領域の増殖が加速されていき、そしてある閾値を超えた時、人間の精神にとって深刻なダメージを与えるものと筆者は確信しており、このような精神状況について「リーガルマインド・コントロール」と名付けたのだ。話が抽象的になってしまったが、具体的なことについては稿を改めたい。

論語に「 七十にして矩を踰えず」とあるが、道徳においては規範と精神が融合していくことは批判されるどころかむしろ歓迎され、理想視される傾向すらある。しかし、筆者は道徳とコンプライアンスを同じように論じていいとは考えない。論語以外でも、例えばモーゼの十戒を見てもわかるように、道徳的規範には身体性とか実感と言ったものが自然と備わっており、それゆえに、たとえ主体と一体化したとしても、人間性の破壊にはつながらない。それに比べ、複雑化した社会におけるコンプライアンスには道徳との乖離が見られ、リーガルマインドもまた身体性や実感を欠いたものとなりがちである。しかも、社会の進歩に伴いコンプライアンス領域は不可避的に拡大の一途を辿り、社会生活を送る上で無視しがたいものになりつつある。詳しい話は省略するが、コンプライアンスにはしばしば暴走する傾向があり、人間の良識の範囲を遥かに逸脱してしまうこともしばしばある。そして、身体性、実感、良識とかけ離れたものであってもコンプライアンスであるが故に守らなければならないといったマインドが確立されていけば、道徳的根拠は一切問われなくなり、ルールを守ること自体が自己目的化されていく恐れもある。この経緯を一言で言えば、「道徳してのルール」から「ゲームとしてのルール」への変質である。

また、このような状況と軌を一にするかのように、スマホなどの、文字通りのゲームに膨大な時間を費やす若者たちが増えている。これについて批判すると年寄りの僻事と思われるかもしれないが、精神がゲーム漬けにされることについては、本当に心配している。昔から、「3S政策」(スポーツ、スクリーン、セックス)とか大宅壮一の(テレビによる)「一億総白痴論」など、メディア等によって人間の精神や主体性が蝕まれていくといった批判や指摘は数多くあった。しかし、双方向性によって異常にのめりこみやすいゲームが、低年齢期から生物学的刷り込みのような形で与えられるということは、過去とは全く異質な環境に突入しつつあることを意味しないだろうか。無意識のうちにゲーム的思考パターンが刷り込まれることによって、ゲームと親和性の高い人間が大量に出現し、さらにコンプライアンスのように、ゲームと親和性の高い社会環境に取り囲まれることによって、ルールそのものの是非を問う者はほとんどいなくなり、その結果社会を変えようとするモチベーションも低下していくのではないだろうか。もしこれが現実となる日が来たら、それは恐ろしきディストピアである。
もちろん今はまだ、そのような状況にまでは立ち至っていないが、すでにその予兆は現れている。それについては機会を改めて論じたい。




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