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インターネット陰謀論(10・終)

2014-09-14
その他
10. リカバリー

デジタル化の行き過ぎの結果、どうやら我々はおかしな世界に迷い込んでしまったらしい。ここから抜け出すためには、やはり時計の針を少し前に戻す必要があるのではないか。このような考え方は、復古主義や懐古趣味と見られがちである。しかし、問題解決の選択肢の範囲に過去も含めるというのは、必ずしも不合理とは言えない。むしろ、選択肢を未来に限定することこそ、偏狭のそしりを免れないのだ。変化それ自体が善であるかのように考える輩がいるが、これは明らかに間違っている。筆者はこれを、前のめりの進歩史観と呼んでいる。奈落の底に向かっているのかもわからないのに、ただ前に突き進めばよいというのは馬鹿げている。過去によりよい選択肢があるのなら、一旦はそこまで退却してみるのも一つの方法であろう。
以上の視点から、四つの問題を取り上げ論じてみたい。

一つ目は、ウィルスが蔓延した結果、その対策のために重装備しなければならなくなった今日のインターネット環境から、過去の牧歌的な時代への回帰である。これを実現するためには、前にも述べたように、世界中に張り巡らされたクモの巣をブツ切りにし、機密情報価値の低い、公開情報中心のサイバースペースに戻る必要がある。汚染されてしまった大気を浄化するには、汚染物質の排出を制限しなければならないはずだが、インターネットの世界においては、空気清浄機による自己防衛のみに終始している。もっと全体のことを考え、ネット環境そのものを変えていくための努力や試みが必要であろう。
従来のコンピュータのモデルは、マザーコンピュータから個々のマイコンへと上位下達される「ツリーモデル」であった。しかし、インターネットの登場によって、多方向に錯綜する「リゾームモデル」(地下茎、根茎)に変わったとされている。しかし、蓋を開けてみれば、ウィンドウズ及びごく少数の米IT企業が一元支配する構造になっており、ツリーモデルと大差ないことがわかってきた。これに対抗するには、個人やコミュニティだけでは不十分であり、やはり国家や大企業の力が必要である。まずは、ウィンドウズ独占に対して異を唱え、独禁法を適用させることによって、この構造に楔を打ち込まなければならない。

二つ目は、電子モデルから機械モデルへの回帰である。かつては、人間と機械のバランスの上に成立した機械モデルが主流であったため、操作法もシンプルで簡単なものが多かった。しかし、電子モデルの登場によって多機能化が優先され、操作が複雑化し、直感的に使いこなせないような製品が増えてしまった。これは、ユニバーサルデザイン(Universal Design)、「合理的配慮」(Reasonable Accommodation)といった国際標準の考え方にも反するものである。故に、弱い者を置き去りにするような製品開発に対しては、国家が規制をかけるべきであろう。行動科学により、多数の人々にとって操作しやすい最低の基準を設定し、その基準を満たす製品が市場に流れやすいようにするための仕組みを作るのだ。認知症高齢者や知的障害者の多くは物いわぬ人々なので、単に市場にまかせていては、いつまでたっても改善されない。また、購入時には余計な機能を加えない最低基準の製品が販売され、それ以上の追加機能を求める人々には、別売品を買ってもらうといったルールを、企業モラルとして確立していくべきであろう。多機能化しても価格的にそれほど変わらない場合であっても、余計な操作があることによって混乱を招くのである。
これだけ電子機器が氾濫する中、すべて機械モデルに戻せというのが暴論だと言うことはわかっている。ならばせめて「併存」という形にすることはできないだろうか。すなわち、手動操作の部分もなるべく残しておくようにするのである。
「サワコの朝」という阿川佐和子が司会をする番組で、宇宙飛行士の野口聡一がゲストで登場した時、アメリカとロシアの宇宙船の違いについて次のように述べていた。アメリカはすべてを電子制御にするのだが、ロシアの場合、ハッチは手で回したり手動の部分を残しておくようにする。そして野口自身は、ロシア式の方が好きだそうだ。
また、福島原発事故の際、ベントの開閉が電子制御になっており、事故でコントロール不能になっていたと伝えられている。あれなど、ベントの開放が選択されなかったからいいようなものの、もし選択され、電子機器の不具合によって開閉できなかったとしたら、大問題になっていたことであろう。
もっと卑近な例で言えば、ウォシュレットがある。ウォシュレットで、流す操作までパネル上で行うタイプのものが増えているが、あれなど従来のレバー式も残しておくべきだろう。公衆便所で、タッチ式の操作盤に触れても反応しないことがよくあるし、もし故障した時、レバー式なら家人や修理業者に依頼して応急処置もできようが、パネル式の場合は、メーカーに部品交換してもらわなければ修理できない。
電気製品と言っても百年、二百年持つわけではないので、必ず故障や不具合が起きる。その時、素人や近所の業者でもある程度修理できるような構造であってほしい。ICチップはブラックボックスなので、「素人には手には負えない」という無力感に陥り、メーカーの修理か買い換えといった選択に迫られる。しかし、このような無力感こそが、企業の増長や監視の温床になっていくのである。

三つ目は、ネットでは匿名性が担保されているため、中傷や炎上等、人間の潜在的暴力性に火をつけてしまったことだ。これらのモンスター行為にはきちっと歯止めをかけ、穏やかな国民性を取り戻すべきである。一方、東北大震災で見られたSNSの貢献のように、ネットには、人間の善や良心を促す側面もある。
匿名性は、自由を担保する上では不可欠なものかもしれないが、名前も名乗らず安全な所から攻撃を加えるというのは、明らかに「卑怯」な行為であり、伝統的モラルにも反するものだ。「卑怯」とは、字義どおりに解釈すれば「怯えを卑しむ」という意味であり、生命尊重主義に最大の価値を置く戦後道徳とは対極にあるものと言っていい。しかし、「卑怯」を悪徳とする見方は、世界中のほとんど国々や民族に存在するものでもある。「卑怯」が否定的に見られる理由は不明だが、恐らく本能レベルのものなので、合理的でないからと言って簡単に見過ごしていいものではない。もちろん内部告発など匿名性が不可欠な場合もあるが、かといって匿名性の下にモンスター行為が氾濫する「卑怯文化」をこのまま野放しにしておいて良いわけがない。
しかし、ここに一つの大きな問題がある。それは、ネット上の書き込みはすべて証拠となるため、もし裁判になった時、実名を使うことによるリスクが生じやすいということである。実際、正当な批判と中傷はなかなか線引きしづらいもので、そのため、どうしても実名を使うことを躊躇うようになる。
そこで、法改正によって、両者を峻別できるようにし、かつ法教育によってそれを周知させ、その上で悪質なモンスター行為をする者には刑事事件として扱い、名誉棄損等を厳格に適用するようにする。そうすれば、卑怯な行為を抑制する空気が醸成され、正々堂々とした行為を是とする美風が復活し、匿名はあくまで二義的なものというモラルが構築されていくことだろう。
ネット上の匿名性を重視していたスノデーンが、最終的には実名告発したことを思い起こしてほしい。

四つ目は、子どものスマホや携帯電話の使用によって直面した新たな問題についてである。LINEのトラブルは、刈谷市の取り組みのように教育的介入が必要であることは前述したが、これをさらに推し進めれば、R15指定(つまり、15歳以下の者の使用制限)と言うことになろう。
最近、BSドキュメントで「ネットいじめ(cyber bully)」が放送された。アメリカでは、青少年のネットいじめが深刻な社会問題となっており、これを苦に自殺をする子どもたちが増えている。番組では、ある少女がネット上で仲良くなったボーイフレンドから突然攻撃的な言葉を受け、悩んだ末自殺したという事例が紹介されていた。このケースでは、少女は母親に逐一相談していたにもかかわらず、自殺を食い止めることはできなかった。事件後、母親が自分で調査したところ、このボーイフレンドは実は架空の人物であり、四軒隣の母娘らがでっちあげたものであることがわかった。
ネットいじめには「セクスティング」といって、自分のセクシーな写真を恋人に送ると、それがネット上でばらまかれ、その結果、現実世界でも嫌がらせを受け、自殺するケースが多い。一旦そういう写真をばらまかれてしまうと、永久に削除することができないため、悲観して死に至るというのだ。また、ネットには多数の傍観者がおり、誰だかわからぬ相手からなじられ、そのことで悩む者も多いという。
番組では、ある識者が、この傍観者が協力していじめの防波堤になるようなモラルが育ってほしいと述べていたが、教室で有能な教師が指導するならともかく、顔の見えない世界でこのようなモラルの形成を期待するのは、困難かつ非現実的としか思えない。一方、子どものスマホや携帯電話の使用を禁じるのは非現実的だなどと、何の根拠も示さずに述べられていた。
先にも指摘したように、スマホや携帯電話をR15指定にするのが一番手っ取り早い方法だと筆者は考える。子どもには、感情をストレートに表す傾向があり、多くの場合それがいじめにつながる。この傾向は大体15歳を過ぎると次第に収まっていくものだが、それ以前にスマホや携帯電話を持たせれば、ネットいじめに拍車をかけ、子どもたちに凶器を持たせるようなものである。アメリカでは、大分前からSNSに加入する際には、親の同意を必要とするという法律があったが、これは実際にはほとんど機能してこなかった。また、この事例のように、親の同意を得て逐一会話の内容を報告しても、自殺を食い止められなかったケースもある。
どこの文化にも、通過儀礼というものがあるが、ある年齢まで一定の行為を制限し、その後それを解禁した方が、子どもと大人の境界が明確になり、大人社会への移行もスムーズになる。わが国にも、成人式や酒・たばこの禁止があるが、元服を見ればわかるように、通過儀礼の年齢はもう少し低い。これはどの文化にも共通するものなので、恐らく生理上あるいは発達段階上の理由があるのであろう。だから、20歳では遅すぎるのであり、一般的な通過儀礼と同様に、15歳前後のタイミングで行うのが一番望ましいのだ。
現代モラルの価値は生命尊重だったはずだが、もしスマホ・携帯電話をR15指定にすれば、間違いなく自殺やネットいじめを減らすことができるはずだ。なのに、何故、R15指定にしないのか不思議なくらいである。恐らく言論の自由等の理念と対立するとか言う理由であろうが、子どもの命に比べれば、多少の自由が奪われることなど大した問題ではない。それに、スマホ・携帯電話のR15指定は、本来の通過儀礼を復活させるための絶好のチャンスにもなりうるのだ。

以上、現在のインターネットが抱える問題点に関して、過去に解決法を求めるという切り口から探ってきた。
パソコンには、初期化(リカバリー)という機能がある。リカバリーによって、ハードディスクの奥に潜んだウィルスを根こそぎ一掃することができる。そして、リカバリーには、「回復」という意味もある。少しうがった見方かもしれないが、この回復こそが、今のインターネット環境にとって一番重要なキーワードではないのか。壊れつつある文化や人間性を、なんとか回復(リカバリー)させたいものである。



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