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2016-08-21
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 相模原障害者殺し事件は世間を震撼させ、人々の心に深い傷痕を残した。マスコミは、当然のことながら人道主義の見地から、19人に及ぶ知的障害者の殺戮という悪鬼の如き所業をなした容疑者を一斉に断罪した。少なくとも大手メディアの中で、容疑者に同情を寄せた記事は一本もなかったと思う。しかし、心の闇の部分を反映させるネットの世界では、犯人を擁護する意見が少なからずあったこともまた事実なのである。すなわち、この事件に関しては、ホンネとタテマエという二重構造が存在しているのである。悲惨な事件を二度と起こさないためにも、正論だけでなく、地下世界の住人たちの声に耳を傾けることも重要であろう。
 筆者は、この事件は思想的テロという側面が強かったのではないかと見ている。その意味で、現在世界中で起きているイスラム過激派によるテロと軌を一にするものであり、共通の基盤があったと考える。マスコミは、容疑者の安楽死思想を歪んだものとして切り捨てるが、今日の安楽死をめぐる思想状況そのものが歪んでいるとも言え、この点を見落としてはならない。
 容疑者はヒトラー思想の影響を受けたと語っているが、これは、ナチス政権下において行われた障害者安楽死計画、すなわちT4計画のことをさしている。T4計画に関しては、カトリックのフォン・ガーレン司教が公然と抗議し、それが多くのドイツ国民にも支持されたため、結果的に頓挫することとなる。しかし、ヒトラーによる中止命令が出た後も、安楽死施設ではT4計画が密かに実行されつづけ、それによって、多くの障害者たちの命が奪われることとなる。そしてこのことは、T4計画を考える上での重要なポイントであると筆者は思う。すなわち、障害者の安楽死は、彼らと接する機会の多かった医療関係者の手によって積極的に実行に移されたのである。
 今回の事件が衝撃的であったことの理由の一つに、犯人が介護職員であったことが挙げられているが、これはT4計画の場合とよく似ている。医療や介護に従事する者の場合、死が日常化していく中で、死というものに対して職業上鈍感にならざるを得ず、また、効率性や迅速性が重視される中では、患者や利用者を物のように扱うことにもなりかねない。そしてこの傾向は、グローバリズムが進展し、効率主義が優先される中、ますます強まりつつあるように思える。すなわち、今日ナチス政権下と同様、安楽死を受け入れやすい土壌が生まれつつあると言えるのではないのか。
 さらに、安楽死はけして過去の問題ではなく、今なお続いている未解決の課題であるということを忘れてはならない。例えば、今日、日本の多くの医療機関において、終末期高齢者に対する安楽死が公然と行われている。これについては、以前このコラムで書いたので、詳しくはそれを参照されたい(「終末期医療の真実」)。すなわち、終末期の多くの認知症高齢者たちは、食欲が減退し自力栄養摂取が困難な状態になると、点滴や胃ろう等の医療行為の不作為により意図的に死に至らしめられるといったことが、合法的かつ日常的に行われているのである。無論家族の同意は必要とされるが、そのプロセスはきわめて不明瞭であり、安楽死が実行される際の基準も曖昧である。通常この段階ではすでに重篤化し、転院が不可能な場合が多いため、たまたま入院した病院の方針に従わざるを得ないこととなる。
 これは、消極的安楽死と呼ばれるが、すでに数百万人のオーダーで実行されている。延命が本人にとって耐えがたい苦痛を与え、劣悪なQOLしか維持されない場合、消極的安楽死は正当化され得ると筆者は考える(もちろん異論はあるだろうが……)。しかし耐えがたい苦痛がないのなら、脳死と同様、明確な基準と適正な手続き(デュープロセス)に基づき行われるべきであろう。脳死が国民的議論となり、不十分ながらも厳正な手続きにおいて行われているのに比べると、脳死より遥かに多くの人々が直面しなければならないこの問題が置き去りにされているのは、法的バランスから考えても不可解と言うほかない。
 明確な証拠があるわけではないが、その背景に、無駄な医療費を削減するという経済的理由があると考えられる。このように公言がはばかれる理由があるからこそ、消極的安楽死の問題は、グレーゾーンの中に落とし込められているのであろう。そして、この消極的安楽死と植松容疑者が重複障害者に対して行った安楽死には、違法性の問題を除けば、明確な線引きはできないと筆者は考えている。すなわち、余命のある程度見込める重度障害者に対する安楽死は正当化されないが、余命いくばくもない高齢者に対する安楽死なら正当化され得るといった理屈は、モラル上成り立たないからだ。もちろん、これはあくまで道徳レベルの話であり、容疑者の行為が重大な犯罪を構成することに対して異論を唱えるつもりはない。
 容疑者の自称安楽死を、生命倫理上の用語に置き換えるなら、「積極的安楽死」の一型ということになろう。「積極的安楽死」とは、致死量の薬物を投与することにより終末期の患者を意図的に死なせることであり、オランダ、ベルギー、スイス及びアメリカの一部の州では合法化・容認されている。しかし、筆者は、積極的安楽死と消極的安楽死を区別することは不毛であると考えている。消極的安楽死は乳児の遺棄などと同様、明確な阻却事由がなければ殺人行為に等しいからだ。そして、このように考えた場合、両者は同じ安楽死に変わりなく、法的問題を除けば、決定的な違いはないと言えるのではないか。そして、ネット上の声は、まさにこの辺の問題を突いたものではなかろうか。すなわち、「今の世の中だって、結局植松容疑者と同じようなことをやってるじゃないか」という話になる。さらに、終末期高齢者に対する消極的安楽死は非常に大規模に行われており、すでに数の上ではホロコーストを凌駕するのではないかと思われる。南京大虐殺の場合もそうだが、数の問題はとても重要なのだ。
 僅かの生存期間を延ばすために膨大な医療費を費やすことは確かに無駄であり、筆者もこの点を無視するつもりはない。しかし問題は、このような重大な決定が今なおグレーゾーンにあり、膨大な数の安楽死が日々恣意的に実行されているという点にある。ちなみに、家族に対する説明の際、「安楽死」という言葉が使われることはなく、恐らく「積極的治療を行わない」と説明されているはずである。しかし、この「積極的治療」という概念がまた曖昧で、筆者の経験でも医療機関によって雲泥の差があるのだ。筆者の父親の場合、終末期に最善を尽くしてもらったと思ってるが、もし別の病院に入院した場合のことを考えるとゾッとするのだ。
 同様の問題は他にもある。現在、出生前、21週以前の人工中絶は合法的に認められている。安楽死と人工中絶は、生命を意図的に終わらせるという意味で、倫理上同じ性格の問題と言える。日本では、1996年、優生保護法が母体保護法に改正されたことにより、法律の文言上優生思想はなくなったことになっている。しかし実際には、障害を理由とする中絶が、「経済的理由」の名の下に広く行われているのだ。今後、出生前診断が簡便化されることによって、この傾向にさらに拍車がかかることだろう。
 このように日本では、「障害を理由とする中絶」はタテマエ上存在しないことになっているが、それは事実とは異なり、しかもこのことが、大きな議論にすらなっていない。アメリカでは、中絶をめぐる問題が、国論を二分する大論争となっており、大統領選の行方を左右するとすら言われている。すなわち、共和党を中心とするプロライフ派は、生命尊重の立場から中絶に対して反対の立場を取り、一方、民主党を中心とするプロチョイス派は、フェミニズムの立場から中絶に関する選択権は女性の権利であると主張している。
 先ほども述べたように、中絶と安楽死は、それが人生の最初期か終末期かという違いがあるだけで、本質的に同じ問題である。日本では、どちらも隠蔽し、直視することを避けてきたのである。この辺の矛盾が、今回の事件を誘発した可能性もあり、また、ネット上の同調者たちは、そのことを感じているのではなかろうか。
 中絶や安楽死を推進する立場の背景に、優生思想がある。優生学は、科学的根拠のない似非科学とか疑似科学と言われている。しかし、果たしてそうであろうか。20世紀初頭、先進国における進歩的知識人の多くが優生学を支持したのである。日本もその例外ではなく、マーガレット・サンガー夫人を招き日本家族計画連盟を設立した加藤シズエ(1897~2001)などはその代表である。加藤自身社会運動家であり、夫は社会党の名物男・加藤勘十である。しかし戦後、ナチのホロコーストによって優生思想は世界中の非難に晒され、タブー視されるようになった。そのため、戦前この思想を支持した人々は皆口を噤み、学問的世界から優生学は一掃されてしまったのだ。
 しかし、例えば、種馬や種牛などの育種は当たり前のように行われているが、種馬とはまさしく優生(すぐれた個体)のことを意味しており、優生のみを選択的に繁殖させることは、動植物のレベルでは昔から行われてきたのである。動植物には適用されるが、人間には適用されない理論は科学とは言えず、単なるイデオロギーにすぎない。極論を恐れずに言えば、人類は、農耕や牧畜の開始と共に、自然に対して優生学的改良を加えることによって、人間にとって都合の良い反自然的な世界を構築してきたのである。米も麦もフルーツもペットも、みなこれらの営為の産物であり、人類文明は遺伝改良(≒優生学)によって多大な恩恵を受けてきたと言っても過言でないのだ。
 要するに、優生学=非科学と言うべき今日の風潮は、科学と言うよりはヒューマニズムの産物なのである。つまり、人間という自然界における特権的存在以外の対象に対しては不自然な遺伝的改良を加えてもかまわないが、同じことを人間に対して行ってはならない。だから、優生学が似非科学であるというのは欺瞞であり、我々は品種改良(育種)という名の優生学をずっと行ってきたのである。これを最近話題となったドーピングの問題と比べてみるとわかりやすい。ドーピングは、たとえ技術的には可能であっても、スポーツ選手に対して行うことは倫理上許されない。優生学も同じことだ。優生学的技術を人間に対して適用することは当然可能だが、たとえ技術的には可能であっても、自然の支配者たる人間に対して行うことは倫理上許されないのだ。優生思想については真実が語られず、今なお欺瞞に満ちた解釈がまかり通っているのだ。
 また、ヒトラー思想も軽視すべきではない。ネオナチは今も存在するし、同様の差別主義KKKも根絶されたわけではない。現にドイツでは、著作権法にかこつけて、戦後長い間、『我が闘争』の出版が禁じられてきたのだ。ヒトラーの死後70年が経過し、著作権の保護期間が切れ、ようやく発禁処分が解除されたが、それでも出版に際しては、ナチズムに関する注釈の付記が義務付けられている。「シャルリーエブド」への襲撃事件の後、メルケル首相は表現の自由を叫んでデモ行進に参加したが、自国における表現の自由に関してはこのように矛盾を抱えたままなのだ。裏を返せば、ヒトラー主義がいまなお無視しがたい影響力を持っているということであり、その背景には、優生思想をめぐる混乱した状況が垣間見えてくるのである。

 植松容疑者の思想を切り捨てる前に、それを批判する視座がきわめて脆弱な基盤の上に立っていることについてご理解いただけたであろうか。安楽死、中絶、優生思想をめぐる思想状況は、今なお混乱の中にある。もちろん、長い間世界中の人々が思索し、いまだに解が得られてない問題なのだから、そう簡単に決着がつくものではない。しかし、その点を自覚しつつ、議論することこそが大切なのである。中絶に関してはアメリカを見習い、国民的議論の土俵に乗せるべきであろう。もっともアメリカでは、論争がしばしばエスカレートし、中絶を行っている産婦人科医がプロライフ派によって襲撃されるといった事件も起きている。だから、オープンな議論にしたからと言って、必ず犯罪が予防できるというわけではない。しかし、同じ起こるならアメリカのようなテロの方が、まだましと言えよう。

 筆者は、今回の事件の背景に三つの要因があったと考えている。

①  思想的要因
②  性格的(内因的)要因
③  環境的要因

 一番目の思想的要因については、これまで述べてきた通りである。だから、筆者は、植松容疑者は確信犯であったと考えている。安楽死、中絶、優生思想をめぐる現在の混乱した状況や隠蔽体質は、まやかしやいかがわしさといった印象を拭えず、かえって事件の再発を助長するものではないかと思われる。一朝一夕には行かぬだろうが、安易に「正しい答え」を植え付けるのではなく、すべての問題を包み隠さず開示することによって事の本質を深く考えさせる教育こそが必要であろう。そして、この事件をきっかけに、安楽死や中絶の問題をもっとオープンな議論にし、決定の手続きやデュープロセスを確立していくべきであろう。
 二番目の性格的(内因的)要因については、事件の本質とは関係のない副次的要因と筆者は見る。確かに植松容疑者には、池田小の児童殺傷事件の犯人・宅間守と同様、境界性人格障害のような性格異常があったと推測される。それは、衆議院議長に送った手紙における常軌を逸した文面からもうかがえる。しかし、宅間の場合も、精神鑑定の結果、心神耗弱や心神喪失は認められず、責任能力が認定され、死刑判決が確定しすでに執行されている。もし仮に容疑者の性格異常が犯行を助長した可能性があったとしても、そのことを一義的に問題視すべきではない。
 これは、統合失調症や大麻使用に関しても同様である。統合失調症が事件の主要な原因であると考えたとすれば、一般人より殺人事件の発生率の少ない精神障害者の差別にもつながるだろう。ましてや措置入院の解除が早すぎたなどというのは論外であり、確たる理由もなく長期間入院させることなどできるはずもないし、強制すれば人権侵害だ。
 また、大麻、特に医療用大麻の解禁は今日世界的潮流でもあり、前回の参議院選挙では、新党改革が掲げた公約でもあった。多くの場合、大麻は煙草と同じくらい無害なことが科学的に立証されている。ただ例外として、二つの遺伝子型を持つ者にとっては、統合失調症を誘発する可能性が高いことが最近の研究から明らかになっている。今回の植松容疑者もそのタイプだったのかもしれない。
 あまり言及されてないが、筆者が注目しているのは、「ヒトラーガ降りてきた」という容疑者の言葉である。霊現象として捉えるか心理現象に置き換えるかは別として、ある種の憑依現象が、容疑者の異常心理を加速していった可能性は否定できない。もちろん、これが無罪や減刑の理由になるなどと言うつもりはない。
 これらの間接的影響がたとえあったとしても、多様性(ダイバーシティ)が求められる世の中にあって、それらは操作不能な要因と考えざるを得ない。すなわち、マイノリティの人々と共生していくためには、境界性人格障害や統合失調症などと犯罪を結びつけることはあってはならないのだ。性格的要因には遺伝的影響が大きいと考えられるが、ダイバーシティ社会では、これらもまた個性の一つと見なされるため、排除することは許されない。もしある特定の性格傾向をもつ人々を排除するなら、それこそ優生学の悪しき適用をするしかないのではないか。
 三番目の環境的要因が、今回特に見落とされてきた一番重要なポイントかと思われる。秋葉原通り魔事件では、犯人の加藤智大が派遣労働者であり、劣悪な労働環境の中で蓄積したストレスが事件の引き金となったと報道された。また、冒頭でも触れたイスラム過激派によるテロの場合も、移民と言う差別的環境によってテロが誘発されたことがしばしば指摘されている。
 今日、福祉労働者も派遣労働者同様、きわめて劣悪な労働環境に置かれているという話をよく耳にする。ちなみに、知的障害者の施設で働く筆者の友人から、この事件の直後にメールが届き、そこには「明日は我が身かと思った」と書かれてあった。すなわち、毎日長時間勤務が続く過酷な労働環境の中で、精神も身体もボロボロになっているというのだ。この友人の場合、「黒福祉」という告発ブログを読んで、いつも共感しているのだという。ちなみに、彼の職場は、今回の事件に関して声明文を発表した育成会系列の施設である。
 福祉が急速な民営化の波にさらされていく中、そこで働く者たちは、低賃金・長時間労働といった過酷な労働条件を強いられている。今回の津久井やまゆり園のケースにおいても、このような視点から取材を掘り下げるべきではなかったのか。ちなみに、津久井やまゆり園の場合、非正規職員の時給は最低賃金スレスレの額であったことが、一部報道機関によって伝えられている。植松容疑者の場合、途中で正規職員に昇格したが、給与に関しては現在全職員に対して緘口令が敷かれているため、正確なところはわからない。注1)しかし、非正規の賃金が最賃に近いということであれば、正規職員の待遇も推して知るべしであろう。
 津久井やまゆり園の場合、2005年の指定管理制度の導入により民営化がスタートした。すなわち、今まで県設県営によって運営されてきた施設の業務が、指定管理者(かながわ共同会)にすべて移管されることとなったのである。その結果、職員体制が大きく入れ替わり、ベテラン職員の多くが離職することとなった。また、1964年の施設発足時、雇用や地元商店の利用等において地元経済に貢献するという約束が住民との間で交わされていたが、民営化の開始と共に、この約束は反故にされ、そのため活発だった住民との交流も冷え込んでしまった。例えば、以前、利用者の一人が施設を脱走し、結果的に付近の川で溺死体として発見されたという事件が起こった。この時は、多くの地元住民が行方不明者の捜索に協力してくれたが、今回の事件の後、弔問に訪れる地元住民はほとんどいなかったという。注1)
 津久井やまゆり園の例から、民営化のもたらす弊害が浮かび上がってくる。2005年を境に、今まで県職員を主体としていた施設職員の給与は大きく下落し、また、地域との活発な交流によって風通しの良かった施設環境も、かつての収容施設のような閉鎖的なものへと逆戻りしてしまった感がある。そして、同じ施設労働者と言っても、県職員と、劣悪な労働環境に身を置く職員とでは、意識のありようも異なるのではないのか。民営化した施設においても、一部の管理者たちは、高い賃金水準を享受し、3K労働からも免れている場合が多い。このような時、幹部職員による人道主義的メッセージは、最賃スレスレの福祉労働者の心に届かないどころか、人道主義的メッセージが階層間をまたいで伝達されるとき、かえって反発を招き、怒りを一気に爆発させてしまうことにだってなりかねない。
 民営化は、国民の税金を無駄遣いしないために経費を節減するという目的の下に推進され、そのためには入札によって経費を安く抑えることのできる民間業者に委託する方法がとられた。しかし一方では、民間事業者に丸投げすることによって、指導・監督を怠るといった行政責任の放棄が目立ってきたのである。津久井やまゆり園においても、裏を取ったわけではないが、一般的傾向として、不十分な監督責任しか果されてこなかったであろうと推測される。競争のすべてが悪いとは言わないが、しかし、それはあくまでサービスの中味に関するものであって、価格を前面に押し出した競争入札によるものであってはならない。また、業務の丸投げによって、行政責任がないがしろにされるようなこともあってはならないのである。
 労働環境の劣悪化による疲労の蓄積は、サービスの低下につながるだろうし、職員による虐待の危険性を高めるだろう。施設における利用者と介護職員の関係は、一般的なサービスの場合とは異なり、サービス提供者(介護職員)と客(利用者)という関係の上に、さらに強者-弱者という権力的関係が重なり合う。そして、このような二重構造は、第三者の目の行き届かない閉鎖的環境において特に顕著となりやすい。この場合の弱者とはもちろん利用者である。通常の取引において、強者と弱者という関係性が前面に出ることはまずないが、それはサービス提供が短時間で終了するからであろう。それに比べ多くの施設では、入所期間が長期に及び、しかも生活全般に関与するため、むきだしの関係性が表に出てしまいやすいのだ。もしこの関係が長期にわたった場合、虐待の温床になりやすいことは想像にかたくない。
 これに関して示唆を与えてくれるのが、スタンフォード監獄実験(1971)である。注2)この実験では、普通の大学生たち10人が囚人役に、11人が看守役になってもらい、刑務所に模した密室に近い大学の地下実験室の中で、経過観察が行われた。実験期間は当初2週間の予定であったが、6日間で打ち切ることになった。それは、看守役の心理的虐待が次第にエスカレートして行き、やがて参加者に心理的後遺症の危険性が生じるほどになってしまったからである。そして、この実験の結果が発表されるやいなや学界に波紋を呼び、実験の倫理的問題が問われ、この種の心理実験は二度とできなくなってしまった。
 当然のことながら被験者たちは、囚人と看守の関係が単なるフィクションにすぎないことをわかった上で実験に参加している。また、被験者は公募によって募集され、スタンフォード大学を初めとする大学生で、中流階級の教養ある若者たちであった。また、アルバイト代として、1日15ドルが支給された。囚人役と看守役の振り分けは無作為に行われたが、24時間拘束されるにも関わらず、ほとんどの者は囚人役を希望したという。なぜなら、将来何かの事件に巻き込まれた時の予行演習になると考えたからだという。しかしそれでも、いったん権力的関係性にスウィッチが入ってしまうと看守役の暴走が始まり、歯止めがかからなくなってしまったのだ。この実験を行ったジンバルドーは、36年後に詳細な記録、『ルシファー・エフェクト-ふつうの人が悪魔に変わるとき-』を執筆しているが、この本の副題(Understanding how good people turn evil)にもあるよう、ごく普通の若者、ないし普通以上に礼儀正しい若者たちが、閉鎖的な環境の中で驚くべき人格変容を遂げてしまったのである。そしてこのことは、潜在的危険思想の持主や元々偏った性格傾向にあった者が同様の環境に置かれた場合、正真正銘の悪魔になりうることを意味している。
 最近の例では、9.11後のアブグレイブ刑務所における捕虜虐待において、これと同様の心理的メカニズムが働いたと、ジンバルドーは指摘している。冒頭で触れたドイツの安楽死施設におけるT4計画の場合も、同様であったと推測される。
 T4計画の場合は、ミルグラム実験(別名、アイヒマン実験)(1963)も参考になる。この実験は、教師役(被験者)と生徒役(実験協力者、つまりサクラ)が別室に分けられ、生徒役が誤った回答を出した時に、脇にいる博士(権威者)が電気ショックによる罰を与えるよう教師役に指示するというものである。すると、インターフォン越しに生徒役の絶叫が聞こえているにも関わらず、6割以上の被験者たち(教師役)は、博士の指示通り最大ボルトのスウィッチを入れたという。この場合の被験者も、新聞で公募した20歳から50歳までのごく普通の男性たちであった。この実験では、たとえ残酷な結果をもたらすことがわかっていても、権威者(博士)の指示には従順に従ってしまうという心理的傾向が観察されたが、スタンフォード監獄実験では、このような権威者は存在せず、自らの意思によって安楽死を実施している。T4計画の場合、ミルグラム実験とスタンフォード監獄実験の両方の要素が複合したものと言えよう。すなわち、T4計画の開始時から中止命令が出るまでは、命令を忠実に実行したという意味でミルグラム実験モデルが適用されるが、中止命令以降は、自らの意思で実行しているわけだから、スタンフォード監獄実験モデルが適用されると考えられる。
 そして、このような心理的傾向は、密室に近い閉鎖的環境にある施設の中でも生じ得ると考えられる。施設における権力的関係は、刑務所ほど極端ではないにせよ、密室的環境にあれば、この関係が徐々に強化されていく可能性だってある。ゆえに閉鎖的な施設においても、虐待が暴走してしまうことになりかねないのだ。
 そして民営化の拡大は、この傾向をますます加速させていくに違いない。すでに触れたように、民営化によって行政の監督責任が放棄されるため施設は閉鎖的環境に近づき、労働条件はますます悪化していく。すなわち、民営化による施設を取り巻く環境の劣悪化が、虐待の引き金となる可能性が否定できないのだ。現に、津久井やまゆり園の事件も、2005年の民営化から十年ちょっと経って起きている。民営化が直接の原因だなどと言うつもりはないが、虐待が起きやすい環境要因が生まれつつあったとは言えるのではないのか。
 しかし、民営化には財政健全化と言う大義名分があるので、この流れはそう簡単には止められそうにない。ゆえに手をつけるのはまず、労働環境の改善からであろう。秋葉原通り魔事件は派遣法の改正と結びついたが、今回もこの事件に見習って、政策の見直しや法改正がはかられるべきであろう。劣悪な労働環境がテロの引き金になり得るというのは牽強付会でもなんでもなく、世界中で指摘されていることなのだ。我々が考えるべきは、この事件を契機に何かをなすことであり、世の中の仕組みを変えることなのだ。
 9月14日、厚生労働省の本事件の再発防止策に関する厚生労働省の検証チームによる中間報告が発表された。その骨子は、①措置入院、②退院後のフォローアップ、③施設の防犯対策であったが、このような論点は馬鹿げたものであり、愕然とせざるを得ない。まず、措置入院に関しては言いがかり以外の何ものでもなく、あのような対応しかできず、また、今後もやってはならないのである。また、退院後のフォローアップと言っても、植松容疑者のように大麻精神病を逆手にとって責任能力がないなどと訴える知能犯に対しては、手玉に取られ逆に利用されるのが落ちであろう。また、施設の防犯対策に関しては、今回警備員が仮眠中であったと伝えられているが、元々警備業法上、警備員には私人逮捕以上の特別な法的権限が与えられているわけではなく、業務研修でも凶器を持った暴漢が侵入してきた場合は逃げるようにと指示されている。だから今回の事件で、もし警備員がその場に居合わせたとしても、他の職員同様犯人に拘束されていたに違いないのだ。今回の事件にも対応できるようにするためには、各施設に現役の警察官を配備・常駐させるしかない。これは非現実的であるばかりか、もし仮に実施した場合、地元住民は誰も寄り付かなくなり、孤立化した環境をますます深めるだけであろう。政府の検証チームがこの程度の案しか出せないとしたら、環境要因改善への道は、前途遼遠と言う他ない。


(注記)

注1) 太田顕(元津久井やまゆり園職員) 「7/26津久井やまゆり園に思う―」元・現場労働者の一人として」 講演(くえびこ学習会にて) 2016年9月

注2) フィリップ・ジンバルドー著 鬼澤忍・中山宥訳 『ルシファー・エフェクト-ふつうの人が悪魔に変わるとき-』 海と月社 2015年



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