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「知の巨人」は異端審問官か―佐藤優の小保方晴子著『あの日』批判について―

2016-06-21
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 STAP細胞問題が、新たな展開を見せはじめている。そのきっかけとなったのはもちろん、昨年1月に発行された小保方晴子著『あの日』であろう。発売と同時に初版5万部がすぐに売り切れとなり、すでに25万部を越える勢いである。また、先月には、「婦人公論」(5月24日発売号)に瀬戸内寂聴氏と小保方氏の対談が掲載され、これもまたすぐに増刷となった。「婦人公論」にとっても、このような反響は十年ぶりのことだという。また、これらに比べるとやや地味ではあるが、5月に上梓された渋谷一郎著『STAP細胞はなぜ潰されたのか―小保方晴子「あの日」の真実―』も重要な書である。同書は、『あの日』の解説書としても読めるが、それにとどまらず、これまでの小保方批判ないしSTAP細胞捏造疑惑に対して有効な反撃を加えている。
 また、さらに地味ではあるが、昨年末に刊行された佐藤貴彦著『STAP細胞―残された謎―』も、STAP細胞が存在する可能性を専門家の立場から肯定的に論じた労作である。佐藤貴彦氏は、単に理系と言うだけでなく、恐らく同業者と思われるほど業界の裏を知り尽くした記述が随所に見られる。特にSTAP細胞捏造説の決め手となった桂調査委員会の調査報告に対する徹底した批判は理論的にも精緻なもので、関係者は恐らく戦々恐々としていることだろう。しかし、ネットで見る限り、これに対する表だった反論は見られない。

 STAP細胞が存在しないことについてはすでに科学的に決着がつき、捏造事件の真犯人は小保方氏であるかのような風説が巷間には流れている。この印象を決定づけたのは、理研による検証実験と桂調査委員会の調査報告なのだが、渋谷氏と佐藤氏の著書は、この二つの報告が発表された後に刊行されたものである。つまり、これらの結果を踏まえて、STAP細胞非実在説、ES細胞による捏造疑惑、小保方犯人説に対して、根本的な疑問を投げかけているのだ。
 STAP細胞事件にまつわる問題はこれだけではない。それは、マスコミによる過熱した報道である。たとえ科学的発見に誤りがあったとしても、その発見者が断罪されることは通常ならありえない。STAP細胞事件において特異なのは、発見者に対するマスコミの誹謗中傷が止まるところを知らず、魔女狩りの様相を呈してきたことである。しかも三流紙によってではなく、NHKや毎日新聞など大手メディアが率先してこの扇動を行ってきた。マスコミは、小保方氏をまるで犯罪者かのように扱い、常軌を逸した人格攻撃が続けられたのだ。

 その中で一番大きな役割を果たしたのは、何と言っても須田桃子著『捏造の科学者』であろう。しかし、これについては稿を改めることとしたい。ここでは、「週刊文春」の「小保方手記は元少年Aの『絶歌』と同じだ」という佐藤優氏のエッセイについて取り上げてみたい。佐藤氏については、同世代の「知の巨人」としてかねがね敬意を払ってきた。しかしながら、あまりに作品を量産しすぎたせいか、このところ玉石混交の感が否めない。「週刊文春」における小保方批判には、そういった氏の悪い面が際立っているような気がする。
 この記事の中で、佐藤氏は『あの日』を「自己愛の書」と断じ、そして「今までを感傷的に綴った‘自分史‘にすぎない」と述べている。先ほど、渋谷氏の著書は『あの日』の解説書だと述べたが、この本の中には、解説抜きには理解が難しい高度の内容が含まれている。佐藤氏はこれについては一切触れず、‘自分史‘の部分のみに着目しているのだ。佐藤氏は速読の達人でありそれに関する著書もあるが、一方精読の重要性も説き、両者の使い分けこそが肝要であると説いている。そして、『あの日』に関する氏の読書法は、恐らく「速読」であったに違いない。
 確かに同書には、メディアでも度々紹介されてきた、

「あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか。一体、いつからやり直せば、この一連の騒動を起こすことがなかったのかと考えると、自分が生まれた日さえも、呪われた日のように思えます」

といった感傷的な記述も見受けられる。
 しかし一方では、若手研究者にありがちな生硬な論文調の箇所も多く、両者が重層的に折り重なっているのが同書の特徴なのだ。しかも、難解な部分に関しては遠回しの告発ともなっており、これを読み飛ばしては、重要なメッセージが伝わったことにはならないのだ。小保方氏は、科学ジャーナリストではないので、平易な日本語に置き換える努力が十分とは言えない。筆者も『あの日』を二回読んだが、渋谷氏の著書を読むと、理解できていなかった箇所が多々あることに気づかされた。そして、こういった書物を読んだ時の典型的な反応というのは、読みやすい箇所のみを記憶にとどめ、後は読み飛ばすといったやり方なのである。辛坊治郎氏などは、ラジオで、何を言っているかサッパリわからないけど、要するに自慢話がしたいんでしょ、というようなコメントをしていた。
 佐藤氏の読解のレベルも、恐らく辛坊氏のそれを超えるものではない。「自己愛の書」や「自分史」といった一言で総括していることがその証拠である。彼は情報分析官であって、心理分析官ではないはずだ。同様の反応は、ラジオ番組における深澤真紀氏にも見られる。渋谷氏は、「佐藤氏の読み方こそ、客観性、実証性を欠いた『自己愛』の文章に見えてならない」と述べているが、筆者も全く同感である。
 筆者は、佐藤氏のラジオ番組をほぼ毎回欠かさず視聴しているが、その中で気になる時がある。例えば、安倍首相のロシア外交に対する評価が、数か月の間に否定から肯定へと逆転してしまったことがあった。まさに舌の根を乾かぬうちにといった感じだったが、その間に起きたことと言えば、鈴木宗男氏がこれに参画したということだけである。確かにロシア通の鈴木氏が加われば好材料には違いないが、それによって客観的情勢がひっくり返るとも思えない。
 また、中国との緊張を緩和するソフトパワーとして、創価学会による文化交流を挙げていたが、これなどは噴飯ものであろう。石原莞爾が関東軍参謀だった頃、関東軍司令部には「南無妙法蓮華経」の垂れ幕が麗々しく掲げられていたのだ。(寺内大吉著『化城の昭和史』)もし創価学会が中国国内で一定の影響力を持てば、歴史問題に執念を燃やしている中国のこと、これを問題視しないわけがない。創価学会がソフトパワーなどと言うのは、脳天気も甚だしいのだ。

 文春のエッセイの中で佐藤氏は、大宅ノンフィクション賞の選考委員の一人として、須田桃子著『捏造の科学者』を推したと述べている。ということは、そもそも最初から中立ではなく、バイアスのかかった視点で『あの日』を批評したと言うことになる。一方、瀬戸内寂聴氏の方は、「報道を信じて、すべてあなたが企てたことだと思っていたのです。この本を読まなければ、真実を知りえなかったと、ぞっとしました」と胸の内を語っている。批評家のスタンスとして、どちらが公平であるかは言うまでもない。そして、50代の佐藤氏が硬直的であるのに対し、90代の瀬戸内氏の方がよほど柔軟なように思えるのである。

 実は、瀬戸内氏、佐藤氏、小保方氏の間には、ある共通点がある。それは三人とも魔女狩りの犠牲になった経験がある、ということである。佐藤氏の場合、2002年、鈴木宗男議員が「疑惑の総合商社」などとマスコミから集中砲火を浴びた時、外務省のラスプーチンなどと呼ばれ、鈴木氏に連座した。結局佐藤氏は、512日間に及ぶ勾留を余儀なくされたのだ。
 一方瀬戸内氏は、1957年、小説『花芯』を発表した時、ポルノ作家・子宮作家と揶揄され、文壇からも追放された。小保方氏との対談の際も、この時の思い出を語り、「そういう経験があるから、あなたがどれほどつらかったかがわかるのです」と語っている。
 それではなにゆえ、過去に魔女狩りの犠牲者となった二人が、同様の経験をもつ小保方氏に対して、全く異なった反応を示すのであろうか。『花芯』事件は、さすがに筆者の生まれる前のことなのでよく知らないが、佐藤氏がマスコミに叩かれた時のことはよく覚えている。この時、佐藤氏は外務省の同僚からリークされ、彼の無罪を証言できる立場にあった上司は海外に逃亡してしまう(東郷和彦氏の言)。その結果、全くの冤罪にもかかわらず、国策捜査の名のもとに有罪判決を受けることとなる。STAP細胞事件の場合も、理研の同僚からリークされたというから、両事件の構造はきわめてよく似ていると言えよう。では、なにゆえ佐藤氏は、小保方氏に対して冷淡なのだろうか。この時に思い出すのは、「負の連鎖」と言う言葉である。
 佐藤氏は、ラジオ番組でも拘置所時代のことを「修行」と言ったり、大杉栄の「一投獄一言語」を引き合いにし、当時のことを明るく語っているように見える。しかし、氏の手記『獄中記』には、自分を求刑した検事に対して過度の信頼を寄せるなど、ストックホルム症候群を思わせる不可解な心の動きが見て取れる。佐藤氏はいまだに魔女狩りの呪縛から、完全には解き放たれていないのではないか。
 魔女狩りというと中世の時代のことのように思われるが、アメリカのマサチューセッツ州セイラム村における魔女裁判は、17世紀末に行われている。そしてこの時、同じ村の親しい仲間と思っていた者から告発を受けるといったことがしばしば起きた。最近の研究によれば、魔女狩りは必ずしも教会権力が主導したものではなく、民衆の集合意識に内在する暴力性が暴発した結果だという。だとすれば、異端審問官などは、民衆の潜在的願望を汲み取り、彼らに代わって罰を与えようとしたのではないか。
 そして、STAP細胞事件において、この異端審問官に相当するのは、桂調査委員会ではないかと思われる。桂調査委員会の報告は、すでにマスコミで騒がれていたSTAP細胞の正体はES細胞であり、それは小保方氏によって捏造された、といった世間の噂をそのまま追認したものに見えなくもない。しかし、これが厳密な方法によって導かれた科学的結論かと言えば、必ずしもそうではない。
 佐藤貴彦氏は、『STAP細胞―残された謎―』の中で次のように述べている。

「(桂調査委員会の調査報告には)どうしても『STAPはESである』という結論を出したいという、結果ありきの姿勢が背後に感じられる」
「(小保方氏以外の不正行為に目をつむったことに関し)つまり、不正の実行者は、あくまで小保方氏一人だけにしておきたかった、ということである」

 要するに、桂調査委員会の調査報告は、大衆に迎合したポピュリズムの産物だった可能性があるのだ。そして、桂調査委員会の発表と同じ2014年12月には、須田桃子著『捏造の科学者』が刊行されている。同書の内容は、桂調査委員会のものと大筋一致している。そして、この『捏造の科学者』を大宅ノンフィクション賞に推薦したのが佐藤優氏なのだ。桂調査委員会、『捏造の科学者』、そして、これに連なる佐藤氏のエッセイは、かつての異端審問官のように、現代の魔女・小保方氏に対して鉄槌を加えたのだ。
 佐藤氏の外交分野における発言は傾聴に値するにしても、STAP細胞問題に関しては所詮素人である。文春のエッセイについても、レトリックを除けば見るべきものはなく、冒頭の「読者の無意識に働きかけて操作する危険な『錬金術の書』である」などの記述も、何も語っていないのと一緒であろう。少なくともこのエッセイに関して佐藤氏は、本来の仕事から逸脱し、玉ならぬ石の如き言論を撒き散らしているようにしか見えないのだ。
「禍福あざなえるがごとし」を地で行ったように、出所後の佐藤氏は精力的な活動を続け、またたく間にマスコミの寵児となった。その旺盛な執筆の背景には、拘置所にいた頃の理不尽な体験があったと思っていたが、今回の小保方氏に対する発言を見ると誤解であったのかもしれぬ。佐藤氏は自らの獄中体験を「修行」と語ったが、仏教では、「里の行」の方がより重視されているのだ。初心に立ち返り、間違っても異端審問官の片棒をかつぐような真似だけはしないでほしいものだ。


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